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必修問題・後半。

2006/02/16 [Thu] 17:50
お世話になっている仕事場で物議が醸されている。
何年か後にカリキュラムが改正され、体育実習が必修から外されるかもしれない、というのだ。

私は、「一体、実際生活に体育が必要であるのか」という意見が出るのは、わからんでもないなあ。という気持ちで受け止めている。
なにより、自分が学生の頃はそう思っていた。
知識として「からだを動かし健康を維持する」ことが必要であるとは知っていても、それはイコール「今すぐに身に付けなければならないもの」ではなかった。なぜなら、今はとりあえず元気に学校へ通っている。やりたくないことをやることもない。もし、やりたくなったらその時にやればいい。
不自由なく生活を送ってきた日本女子ならば、18歳やそこらでは、生きていく上でこの先に起こる自分のからだの変調について、思いを馳せる機会は少ない。自分の肉体がどんな条件で変化するか、どうすると衰えたり活性化したりするか、そのことによって起こる内面の変化は何なのか。などということについて、個人差はあれ、切実に考える機会はあまりないんじゃないだろうか。もっとも、そんなことを考えている若い娘というのも、なんだか「若くない」気もするけれど。

今は特に運動に時間を使うつもりはない。資格を取り、免許を取り、卒業して、進みたい道へ進むのが当面の課題だ。やりたい事をしたい。運動なら、うまく時間を見繕って、その中でスポーツやダンスをする時間が作れたらいいな。仕事をして、結婚して、出産して。いつかはからだに衰えを感じるだろうか。まだわからないけど。

若い、といえば大体こんな感じだろうか。

そしてこの場所は、主にその若い娘さんを中心に育成し、社会へ送り出す役割を担っている。
学校がカリキュラムとしてからだづくりを必須的にサポートしないということは、その教育機関のメッセージとしては「運動したければ自分でやってね」ということだ。
たしかに、興味がある学生は放っておいても自主的に運動を行うだろうと思う。
だって、興味があるんだから。
だが、運動に関心を寄せない学生はどうだろうか。体育実習が卒業に課されなくて、何も問題意識を持たず、何も気にせずに社会に出て行く女子学生はどうなるのだろう。

現在、学校としては卒業後、学生にはまず就職することを期待しているみたいだが。
就職し働いて、その仕事があまりに忙しかった場合、時間をやりくりして運動しようと思うだろうか。もしなにかのきっかけで体調を崩したり怪我を負ったりしたとき、仕事を続ける精神を保てるだろうか。仕事をしない、それなら結婚して生活をしていこうとした場合、健康保持を大切にする家庭を築けるだろうか。子どもを生み育てるならば、自分の健康観は育児にどのように投影されるのだろうか。
仕事も結婚も育児も私の人生設計には入ってないよ、という子にはピンとこないかもしれないが。

これらのポイントのいずれにも、運動の話に限らず「やりたかったら実行する」という選択肢は確かにある。しかし、自分でそれに思い至らないのでは、オプションは存在すらし得なかったことになる。そして、「やり方がわからないものに関与しよう」と思うときは「やりたい」ときなのだが、わからないもの・知りたくないものに対して関心を持たないという態度を学習時代から続けてきた人間が、わからないものを「やりたい」と発心する瞬間をそう簡単に持てるだろうか。

「存在は知っているけど、どんな内容なのかはわからない」から興味が起こるのが、知への一歩だと思う。
それがあることがわからなければ、なにがわからないのかも知ることができない。
自分の持っている知識とまだ知らない知識との距離を知っている=「自分が何を知らないかについて知っている」ということが、教養なのである。
教養を与える立場にあるものが、何を以ってしてそれを唱えるかというと。
迷っている場面でもないんじゃないかと私は思う。

これはまた違う話だけれど。
「なんだかよくわからないけど存在している」ものを認めようと努力できるのは、人間の持つ重要な能力である。
これが発揮されているとき、人と人の間には「礼儀正しい」ような空気が流れている。
「なんだかよくわからないけど、存在していることが分かる、そのものの存在する権利はとりあえず守る」
という気持ちの受発信の関係が安定しているとき、人と人はコミュニケーションができる。
それが人間として生きているという実感に繋がるんだ、という想像を、のんびりしたこの空気を吸うことで膨らませ、それで社会に出て行けたら、
ちょっといいんじゃないの?

ふう。
私もいいかげん暇人だな。
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コメント

Not Subject

まったくもって、そうですね~
「とりあえずその存在を知る」ということは本当に大切な事だと思います。興味のある事ならイクラでも調べて体験するけど、そうでないことだと知るすべもない上に、それが実は人生においてとても重要な物であった場合(自分の子供の栄養や健康面を考える上においてとか)、知らないと致命的なダメージを負うわけですから。
嫌な事、興味のない事もやらせて“もらえる”(学生時代はそう思わないけど)のは学校の利点でもありますね。これは体育の問題に限りませんが、例えば古典文学とか、まっっっったく興味がない上に知っててもしょうがない事だって、知らないより知ってる方が良い。それには半強制的にでも学校で教えるのが一番いい。のにもかかわらず、最近は「生徒が興味を持っている物を」という理由で近代小説を取り上げているケースが多いと聞きます。違うんだよなぁ。興味がある物は自分で読むし、自分なりの解釈もするのに、どうして子供に合わせようとするんだろう? どうして大人が道を指し示してあげないんだろう。
その理由は言う間でもなし、なんですが、もうちょっとしっかりしてよ大人達。と思います。
相変わらず論点がズレた結論に達してしまいました(T.T)。

choyushiさま

確かに最近の「大人」ってば、何やってんの!っていいたくなる人多いです。しかしふと気づくと自分もそこから程遠くない地点に立ってんだな、と改めて周りの「子ども」たちを観察しつつ反省したりして。

気づく人は気づくし、気づかない人はなかなか気づかない。
「そこ」へアクセスする道筋や道そのものを知らないってほんとうに「致命傷」だと私も思います。問題なのは、その傷の深さをたいしたことないように思わせぶらせてる雰囲気とか風潮だ…

>最近は「生徒が興味を持っている物を」という理由で近代小説を取り上げているケースが多いと

そうそう。「どうやって学校そのものに自主的に参加してくれるか=学校に来てくれるか」っていう気持ちなものだから。近代小説を入り口にして古典の世界へ導くような授業、ってのもあれば面白そうだけどねー。

「興味のあることしか見ない」というクセを子どもの頃に身に付けてしまうと、その後の修正は、それが低年齢であればあるほど難しくなると思います。知らなかった世界に気づく謙虚さ、「無知の知」みたいな資質は、自分で学習して獲得していくものだと気づかなければ、単なる「無知の無知」になってしまって面白くもなんともない。

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